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東京地方裁判所 平成8年(ワ)10550号 判決

主文

一  被告は、原告に対し、別紙物件目録記載の建物を明け渡せ。

二  被告は、原告に対し、金七万円及び平成八年四月一日以降明渡済みまで一箇月金一八万円の割合による金員を支払え。

三  原告のその余の請求を棄却する。

四  訴訟費用はこれを六分し、その一を原告の負担とし、その余を被告の負担とする。

五  この判決は、第二項に限り、仮に執行することができる。

理由

一  請求原因について

請求原因事実はすべて当事者間に争いがない。

二  抗弁について

1(一)  抗弁(一)(1)の事実中、本件建物の前賃借人がオウム真理教の信徒であったことは、当事者間に争いがない。

平成七年三月の地下鉄サリン事件以降、オウム真理教の関係者が多数起訴され、逃亡中の特別手配被疑者の存在が市民生活に少なからぬ不安をもたらしていたことは、当裁判所に顕著である。

《証拠略》によれば、本件建物にオウム真理教の信者に宛てた郵便物が転送されてきたことがあったこと、テレビ放映するために株式会社東京放送報道局の記者が平成七年一〇月に本件建物に取材に訪れたこと、オウムのアジトの追跡調査として他の取材陣も訪れたこと、警察がかつて本件建物の見張りを行っていたこと、以上の事実を認めることができる。

(二)  これらの事実によれば、本件建物は、報道関係者等から、オウム真理教の関係者が多数出入りし、種々の活動の拠点である「アジト」であったと目されていたものというべきである。

2  抗弁1(一)(2)の事実中、別件賃貸借契約が締結されたこと及びその交渉に際し、原告が前賃借人が同教団の信徒であることを認識していたことについては当事者間に争いがなく、この事実に《証拠略》を併せて考えれば、原告は、別件賃貸借契約の成立以前に、本件建物が報道関係者等からオウム真理教の関係者のアジトであったと目されていたことを認識していたものと認めることができる。

3  《証拠略》によれば、抗弁1(一)(3)の事実が認められる。

4  抗弁1(一)(4)の事実は当事者間に争いがない。

5  《証拠略》によれば、抗弁1(一)(5)の事実が認められる。

6(一)  右1、2及び5の事実に基づいて考えると、平成七年三月の地下鉄サリン事件以降、オウム真理教関係者で特別手配被疑者がいたことが市民生活に少なからぬ不安をもたらしており、右の社会不安は同年五月ないし八月当時もなお解消していなかったものと認められるところ、このような状況下においては、本件建物が、報道関係者等から、オウム真理教の関係者が多数出入りし、種々の活動の拠点である「アジト」であると目されていたことは、同年五月ないし八月当時原告提示の賃貸条件で本件建物を賃借するか否かを判断する上で重要な考慮要素であったものというべきであるから、原告としては、本件建物が報道関係者等から右のようなものと目されていたことを認識していた以上、その当時本件建物について賃貸借契約締結の申込の意思表示をする者に対し、右認識内容を告げるべき信義則上の義務を負っていたものと解するのが相当である。

したがって、原告には別件賃貸借契約の締結に際し、被告に対して前記のとおり認識していた事実を告げるべき義務があったものと解するのが相当である。

(二)  本件全証拠によっても、原告が右義務を尽くしたといえる事実は認められない。

(三)  よって原告は右義務違反により被告が被った損害を賠償すべき義務を負う。

7(一)  6(一)で述べたとおりであるから、原告には本件賃貸借契約の締結に際しても、被告に対して本件建物が報道関係者等によってオウム真理教のアジトであったと目されていたことを告げるべき義務があったものと解するのが信義則に照らして相当である。

(二)  そこで、原告が右義務を尽くしたか否かを検討すると、《証拠略》によれば、本件賃貸借契約締結に際し仲介業者である有限会社日鉄不動産と被告との間で契約締結交渉が行われたこと、被告が右仲介業者から契約締結直後にオウム真理教の信徒が本件建物の賃借人であったことを告知されたこと、以上の事実が認められる。

しかしながら、原告が被告に対して告知した内容をもってしてはいまだ前記信義則上の義務を尽くしたものというに足りないところ、本件賃貸借契約に際し、原告が被告に対して直接又は右仲介業者を通じて本件建物が報道関係者等からオウム真理教の関係者のアジトであったと目されていたことを告知したことを認めるに足りる証拠はなく、《証拠略》によれば、被告は、右仲介業者から前記のとおり告知されていたものの、ごく普通の信者であったことを理由に、気にすることはないと言われ、既に本件建物に入居することを決めていてその準備もしていたことから、さほど気にかけることもなく本件建物に入居するに至ったこと、以上のとおり認めることができる。

そうすると、原告が前記信義則上の義務を尽くしたものということはできず、原告は、右義務違反により被告が被った損害を賠償すべき義務を負う。

4(一) 本件のように、賃貸人提示の賃貸条件で建物を賃借するか否かを判断する上で重要な考慮要素となる事実について告知義務違反があった場合において、右告知義務違反がなければ当該建物賃貸借契約が締結されなかったであろうと認められるときは、賃貸人は、賃借人に対し、当該建物賃貸借契約締結のために賃借人が出捐した費用相当額を賠償すべき義務を負うが、賃借人が支払った賃料については、もともと建物の使用収益の対価として支払うことが約定されていたものであり、賃借人として建物の使用収益を行った以上、右告知義務違反によって建物の使用収益に相当する利益を受けたものということができるから、賃借人が支払った賃料相当額は、損害額から原則として全額控除するのが相当である。

《証拠略》によれば、原告に前記各義務違反がなければ、被告は別件賃貸借契約も本件賃貸借契約も締結しなかったものと認めることができる。

(二) 《証拠略》によれば、抗弁1(三)(1)の事実のうち、被告が別件賃貸借契約に際し手付金一〇万円を支払ったこと、本件賃貸借契約に際し礼金三六万円を支払ったこと、以上の事実が認められる。

同1(三)(1)のその余の事実については、これを認めるに足りる証拠がない。

(三)  《証拠略》によれば、抗弁1(三)(2)の事実が認められる。

(四)  抗弁1(三)(3)の事実は、これを認めるに足りる証拠がない。

(五)  《証拠略》によれば、抗弁1(三)(4)の事実中、被告が、原告の過失によって精神的損害を被ったことが認められる。

右精神的損害を慰謝するための慰謝料としては、本件にあらわれた諸般の事情を考慮し、金一〇万円をもって相当と解する。

5 よって、原告は、被告に対し、不法行為による損害賠償として金八三万円を支払う義務がある。

6  被告の相殺の抗弁は、被告の相殺の意思表示に先立って原告がした本件賃貸借契約の解除の意思表示の効力を左右するものではないから、本件建物の明渡請求に対しては抗弁たりえないが、右に述べたとおり、原告に不法行為による損害賠償責任があるところ、抗弁2の事実は当裁判所に顕著であるから、原告の賃料支払請求権は右の限度で相殺により消滅したものというべきである。

三  以上によれば、原告の本訴請求は主文第一項及び第二項の限度で理由があるからこれを認容し、その余は理由がないから棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、九二条を、主文第二項に対する仮執行の宣言につき同法一九六条一項をそれぞれ適用し、主文第一項に対する仮執行の宣言の申立てについては相当でないからこれを付さないこととして、主文のとおり判決する。

(裁判官 高世三郎)

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